外部の人間が萌えについて考えてみました

本文内で、筆者が鶴巻和哉氏なる方の意見定義を勝手に敷衍(ふえん)したという、

キャラクターは人の心が生み出した存在であり、人の本能により忠実である。それゆえに現実の人物にはありえない魅力を放つ。しかしその代償として「決して手を触れることはできない」

という意見は部外者から見た萌えと、内部の人間が見た萌えの本質を同時にとらえた慧眼だと思う。ただ、このあと筆者の意見は『初恋再体験』に着地して終了してしまうのだが、ここで終わるのはもったいないんじゃないかと思い、もう少し掘り下げてみることにした。

『萌え』が初恋(恋愛)の代替物であるということは、逆に現実の恋愛が機能していないということを意味する。つまりその背後には、現実と理想の恋愛の乖離、あるいは恋愛能力(または恋愛可能な環境)の欠如という問題が背後に横たわるわけだ。こういった背景があって初めて、代替物というものの必要性が発生する。現実と理想の恋愛の乖離、については上記記事がそれなりに論じているので、ここでは割愛し、恋愛能力(または恋愛可能な環境)の欠如について考えてみる。

代替物は代替であるがゆえに、本物の恋愛を獲得できなかった理由を除いた形でなければならない。たとえば、ユーザーの意に反した行動を行う、ユーザーに劣等感をもたらす、ユーザーと根本的に価値観が違う、などといった属性を持つことわ許されない。それゆえに萌えキャラは従順、ドジ、幼児化、電波といった属性を付加される。ようはユーザーが恋愛においてアドバンテージを取ることができる人格、あるいはユーザーがなにもしなくても、向こうから積極的にユーザーに都合の良い恋愛を行ってくれる人格でなければならないということである。
このような背景が、成熟した女性への萌えが発生しない理由であると思われるが、屈服(あるいは屈服の暗示)という形をとることで、萌えが発生する可能性はあると思われる。


何か時間がなくなってきたし昼飯の時間になってきました。

キャラの記号化という側面は、萌えの主体がキャラクターではなく、シチュエーションや関係性であり、キャラクター自体は代替可能なものなんではないかと思います。互換性があるといってもいいかもしれない。漫画でもゲームでも消費物である以上、どこかで消費しつくされる瞬間があるのだと思うのですが、キャラクターを記号かすることで、1つの作品から別の作品へ今までの恋愛感情をシームレスに移行できるようにする機能があるんじゃないでしょうか。 まぁ、各キャラクターはスキンのようなものだということです。

まだ、色々考えることがあるけど、時間切れ。